生きる
鬼才、世界の黒澤明、最高傑作、
「生きる」
この日本では、「癌」といいますと、不治の病との認識を多数の人が持っているのではないでしょうか?
「悪性腫瘍」となれば、もう助からないと、誰もがそう思っているのではないでしょうか?
でもこうした認識が、誤った固定観念だとすれば、それはいつから固定されたのでしょう・・・
映画、「生きる」
・・・が、そうした常識観を日本に根付かせた、という話を聞いたことがあります。
初老の主人公は役所で判子を押すだけの毎日。
映画のナレーションは彼を、「生きていない」、という。
ある日、医師から胃癌と少ない余命を宣告された主人公は、残された日々をどうすればいいか煩悶する。そして、たらい回しにされていた住民の声を一人背負い、地域の公園を作ることに奔走するのです。
あらゆる妨害を乗り切って、彼は公園を作り上げ、冬の雪の夜、公園のブランコに揺られながら死んでゆく・・・
この映画が、「癌」に対する誤った認識を生んだとするならば、世界の黒澤はなんという汚点を残したのでしょう・・・
いや、脚本家が悪いのか・・・
黒澤は脚本から感動作を作ろうとしただけで・・・
現代でも、残された命を懸命に・・・余命・・・的な作品が多すぎるような気がする。
これも黒澤の影響なのか?
「生きる」
・・・ということを、「死」とひきかえに表現するということで、なぜ「癌」ばかりが登場するのか?
そして、「生きる」ということを、「死」と関係なく表現できないのか?
私はちょっと、考えてみました。
考えて考えて、こんなタイトルの映画があれば、新たなる認識を日本に植えつけることができるのではないか・・・そう思ったのです。
「生きる」
・・・とは、
・・・本当は、
何なのか?
映画、
「スケベ」 〜パクッとしたろか〜
ちなみに、
〜パクッとしたろか〜
・・・は、映画の副題です。
やかましわっ!!( -_-)=○☆)>_<)アウッ!