片隅の町の幸せ

それは、あなたの小さな幸せ

水を得る

 「水を得た魚のよう」
 まさにこの言葉通りという姿を、三度見たことがあります。

 一度目は、人口尾びれを付けたとたんにすごいスピードで泳ぎだし、水面からハイジャンプを何度も繰り返した、尾びれを失くしたイルカ。

 二度目は、職人が特別に作った義足を付けたとたん、勢いよく駆けずり回った、前足を失くした猫。

 そして三度目は、やっと体に合った薬をのむことでパフォーマンスができるようになった、アルツハイマーになってしまった八十六歳の大道芸人ギリヤーク尼崎

飛ぶ

 
 パラリンピック閉幕っ!

 ご覧になりましたか?
 といいますか、前大会でこんなにフューチャーしてましたか?

 不適切な言い方だったら申し訳ありません。パラリンピックとは、パラ・・・半身が不随の・・・アスリートの大会だという意味だそうですね。でもいつしか、パラ・・・もう一つの・・・オリンピック、という意味に置き換えられたそうです。
 私はやはり、始まりの意味が適切だと思う。

 私は見ていて、感動というよりも、恐ろしかったです。手足の片方が、もしくは両方がない人たちが走る、飛ぶ、泳ぐ、ぶつかる、泣く、咆えるっ!

 「感動する」
 この、心の模様の、さらに上に、感情があるんだなと、パラリンピックを見ていて思いました。でもそれをなんといっていいのか・・・

 生命というのは、肉体ではないのだ・・・



 四年後の東京、もう少し違う達観で、観れているのでしょうかね。
 だから私は尋ねたい。





 そこのお姉さんっ!

 
 ビシッ!


 もう一枚パラッ・・・と、

 
脱ぎませんか?

バキッ!!( -_-)=○☆)>_<)アウッ!


 

本の香り

 本を買う時、新刊本を買いますか?それとも、読みたいけど文庫本になるまで待って、それから買おう。そう思いますか?
 後者の人、結構多いんじゃないでしょうか?何より安いし、それに持ち運びやすいですよね。

 作家の人って、どうなんでしょうねえ。やっぱり、新刊本を買ってほしいのでしょうねえ。でも、文庫本刊行にあたり大幅に編集・加筆とかやるじゃないですか?読むほうにしたら、どないやねん、どっちを買ってほしいねん、って思いますよ。結局、両方買えっちゅうんかい。ってな感じですよ。

 私は文庫本派なんですけど、最近、ほんとに久しぶりにハードカバーの新刊本を買いました。なぜかというと、何気に本屋で並んでいた一冊の本を手に取ってパラパラ開くと、何とも言えない紙の香りがしたんです。文庫本にも独特の香りがあるけど。そうじゃない、なんというか、新鮮な香りがしました。それで、買ったんですけどもね。やっぱり作家の人って、文庫本より新刊本に気合が入ってるんじゃないかなって、その時そう思いましたね。


 まあ、最後に言わせてもらいますけどね、私は、






 
若い人の下着でも、

マダムの下着でも、


両方買いまっせ〜〜
どっちの香も好きでっせ〜〜バキッ!!( -_-)=○☆)>_<)アウッ!

今週のお題「マイベスト家電」 電子レンジ

 

 この間、十五年ぐらい使い続けた電子レンジを、新しい最新タイプのものに買い替えました。
 十五年戦士の電子レンジは、くるくる回らなくなっていたのです。揺さぶったり叩いたりしたら回りだすのですけど、また止まったりして、ついにはうんともすんとも回らなくなってしまいました。そして決断したのです。最新タイプは、さぞかしくるくる回ってくれるだろう。そんな期待でいっぱいでした。

 そして、やって来ました、最新電子レンジ。さあ、どんどん回ってくれいっ!スイッチを押した私の目に映ったのは、まったく回ることなく温められていく食べ物だったのですっ!

 最新式の電子レンジは、中の容器が回転することなく食べ物を温めてしまうのですよっ!

 しかしそれもなんかねえ・・・







 

 ちらリズムがないようで、私が温まりませんわっ!

 バキッ!!( -_-)=○☆)>_<)アウッ!

心の光(最終回)、夢へ


 母親と友人関係だった書道家の先生から、一枚の色紙が送られてきました。色紙には、「夢」と書かれています。


 


 色紙と一緒に、私宛に手紙も入っていました。







 最愛のお母さまを亡くされて、日に日に寂しさがつのって来る頃と存じます。

 「夢」、これはさんざん迷ったあげく選んだ、貴方にさしあげようと書きました字です。

 一回きりの現実の人生はまるで夢のようなもの。

 この世の中と現実の命は永遠ではないのです。

 だから眠って見るはかない「夢」は、私達に真剣に生きることを思い起こさせてくれます。

 だから思いっきり生き抜いて下さい。

                                   







 
 

心の光(五)、解放

 


 よく、『親の死に目に会えない』ことが否定的に言われたりします。でも私は、親の死に目に立ち会った人に聞いてみたいです。本当に、その場にいて良かったですか?って。
 私個人は、そこにいなかった方が良かったとも思う・・・という気持ちが、これからも絶対に消えないような気がします。
 でも、そこに絶対にいるようになってたんだと・・・しか思えないことも確かです。


 「親子でこういうことを繰り返しとるんや。な」


 こういいながら私に抱えられてポータブルトイレに座る母親は、母親(祖母)の最後の介護をしていたそうです。だからとはいいませんが、そうとしか思えないのです。





 嘘のように好転した母親の体調も、やがて悪化していきました。

 
 「やっぱり、医者の言うことは当たってるんやわ」

 
 母親は、妙に納得したように言っていました。みぞおちの痛みと激しい倦怠感で、やがて、食事も水分もとるのもままならなくなって、モルヒネと鎮静剤を皮下注射で二十四時間体内に投与し続けることになりました。
 薬で混濁しつづける母親の意識。緩和ケアとは、こういうことをいうのかと思いました。苦しみをとるのではなく、苦しみを意識ごと根こそぎとるんだ。だからこそ今考えると不思議なのです。その日、突然覚醒して、明朗に話し、お腹がすいたといって、蜂蜜と栗を食べたいといって、正月用に買っていた栗を食べさしました。
 その時分には、医者の訪問は毎日になっていました。そしてその日に限って、いつもよりもずいぶん遅い時間に、医者はやってきたのです。いつもより数時間も遅くに・・・それが不思議でしようがないのです。
 その数時間の間に、明朗だった母親も苦しくなってきたのか、横になってしまいました。でも、医者が部屋に入ってきて挨拶すると、私に体を起こせとの身振りをするので、私は母親を起こしました。ノートと書くものをというので、渡しました。母親は、力が入らない手でミミズが這っているようなものを書いたのです。文字とは思えない誰が見ても読めない代物でしたが、私にはわかりました。目の前の医者の名前だとはっきりわかりました。○○先生。


 「○○先生って書いたんか?」


 そう聞くと母親は、うんうんと頷きました。そしてひどく苦しそうなので、横になるかと聞くと、頷きました。私は母親を寝かせました。ものすごく苦しそうでした。
 医者が皮下注射の薬の入れ替えをしている時です。苦しそうに眉間にしわを寄せていた母親が、すっと目を開きました。天井をじっと見てるその顔から、今思うとはっきり分かるのですが、全く苦しさが消えていたのです。布団から手を天井に伸ばして、何かをつかもうとしているように宙をかいています。その何かがはっきり見えているように、苦しみから解放されたように目をしっかり開いていました。私はまた、薬が再び効いて意識が混濁の中に入っていくのだ・・・そう思いました。


 私が、その場にいない方が良かったとも思う、といったのは、その瞬間がその瞬間だと分かっていれば・・・という気持ちがこれからも消えないだろうと思うからです。天井に向かって伸びていた母親の手が布団の上に下ろされました。そして母親はまた目を閉じました。薬が効いてまた、眠るんだろう・・・と私は思ったのに。その間の母親の動きをじっとみていた医者は、


 「呼吸が止まっているかもしれません」


 といったのです。私は十数秒じっと座って寝ている母親を見ていました。医者の言う意味がよくわからなかったし。その医者も、いつものように、母親の血圧やら体温を計りだすだろうと思ったのです。でも医者は何も行動をとりません。異様に不安になって、私は母親の肩に手を置いて、「おい」とゆすりました。そしたら、糸の切れたとはこういうことかといった風に、母親の体がかくかくして空っぽの軽さだったのです。何か言うだろうと思って何度揺さぶっても、かくかくと空っぽの軽さだったのです。



 なんで、いつもより数時間も遅れてきた医者に合わすように・・・と今でも思います。その時でなければ、私はその場にいなかったかもしれないのに。トイレに入ってたかもしれないし、台所に立っていたかもしれないし、隣の部屋で新聞を読んでたかもしれないし・・・。
 それは、もちろん私の意志でもないし、母親の意志でもないし、何かもっと別のもののなせる意志のような気がする。母親の母親とか、その母親とか、そのまた前の・・・そんな大きな膨らみの意志のような気がする。



 
 

心の光(四)、回復

 

 服用していた薬をすべてゴミ箱に捨ててしまった母親に、私はできる限り、食事を手作りして食べさせることにしました。というのもその時の母親は、食べる時も飲む時も、「にがいにがい」と言っていたのです。おそらく薬の副作用かと思うのですが、母親にとったらその副作用が、病院が処方してきた薬による陰謀だという被害妄想に犯されていたのです。食べるものに非常に警戒心を抱いていました。それ以外にも、電話や郵便物やインターホンにも敏感になっていました。母親の顔は常に緊張を浮かべていました。

 いったいどのような世界が、母親の頭の中に渦巻いていたのか・・・ 

 しかしそんな母親も、家に帰ってきて、少しずつ少しずつ、絡まりあった糸玉がほぐれていくように、平穏な表情を取り戻してきたのです。いつの間にか、食べても飲んでも「にがい」とは言わなくなりました。実際、私が出す食事を美味しいと感じているようでした。病院のことも言わなくなりました。

 私は母親に、縁側に出て日向ぼっこをしてみないかと勧めてみました。外の世界に警戒心を抱いていた母親ですが、あっさりと承諾してくれました。それからは縁側での日向ぼっこが日課になりました。その後も私は介護用品事業所に出向き、車椅子と四点杖をレンタルしました。当時の母親は、もちろん一人で歩くこともできません。杖をついてでもです。そこで車椅子でなら一緒に外に短時間でも出ることができるし、安定感がある四点杖なら、ひょっとしたら一人で歩けるかもしれないと思ったのです。

 介護用品というのは、よく考えられたものだと感心しました。普通の杖なら歩けなかった母親が、四点杖を使ったら、よちよちですが歩くことができたのです。まるで赤ん坊が立ち上がって歩き出したようでした。私は天気のいい日に、母親を車いすに乗せて外に出ました。






 医者や医療に不信感不快感を抱いていた母親ですが、もう大丈夫かもしれないと考えた私は、訪問緩和医師を家に呼びたいと持ちかけました。やはり、医師とつながりがなく家族だけで母親を見ることは不安であったのです。そして想像以上にあっさり承諾してくれたのには驚きました。やってきた医師は母親を診察して、非常に顔色もいいし、思っていた以上に状態はいいですね・・・と言ったのです。その医師は、二週間おきに来ることになりました。
 やせ衰えていた母親の体重も、2kg増え・・・。前の担当医が宣言していた、余命が十月ごろだろうというその十月が来ても、母親の体調良好は続きました。


 本当にこのまま治ってしまうのではないか。
 またお遍路の旅でも、出られるのではないか。
 そう思いました。