片隅の町の幸せ

それは、あなたの小さな幸せ

心の光(二)、脱出

 その夜、私は母親の病室に泊まり込みました。私にベッド上の母親は、翌朝にこの病院から脱出して家に帰るという計画を話すのです。そして一方で、目に見える、または耳に聞こえる現象を語るのです。


 「あそこが青く光ってる」
 「ほら今、電車が走ってるやろ」


 深夜の病室に青く光るものはないし、電車が走る音も聞こえるわけがありません。そして母親は、のどが渇いているだろうと思って私が差し出した水道水を飲もうともしません。


 「この病院の水道水には毒が入ってる。あんたも飲みなやっ!」


 崩壊した精神は、もう元には戻らないだろう。
 一瞬、この母親をベッドに縛り付けてでも入院を続けさせるという、悪魔的な思考が浮かびました。しかし水さえも拒否するこの今の状況では、餓死してしまう。狂気の中に入ってしまった母親の目と見つめあって、私は結局、母親を家に連れ帰ることに決めました。翌朝、私たちはまるで夜逃げのように病院から出たのです。まさに脱出劇のようでした。




 久しぶりに家に帰った母親は、ほっとした様子もありませんでした。そればかりか、


 「病院からつけられてるかもしれん」


 そう言って、かかってくる電話から郵便物から、すべてに神経をとがらせる有様でした。そして、今まで服用しつづけていた約十種類の薬を、


 「もういらん」


 そう言って、ごみ箱にすべて捨ててしまったのです。