片隅の町の幸せ

それは、あなたの小さな幸せ

今週のお題「マイベスト家電」 電子レンジ

 

 この間、十五年ぐらい使い続けた電子レンジを、新しい最新タイプのものに買い替えました。
 十五年戦士の電子レンジは、くるくる回らなくなっていたのです。揺さぶったり叩いたりしたら回りだすのですけど、また止まったりして、ついにはうんともすんとも回らなくなってしまいました。そして決断したのです。最新タイプは、さぞかしくるくる回ってくれるだろう。そんな期待でいっぱいでした。

 そして、やって来ました、最新電子レンジ。さあ、どんどん回ってくれいっ!スイッチを押した私の目に映ったのは、まったく回ることなく温められていく食べ物だったのですっ!

 最新式の電子レンジは、中の容器が回転することなく食べ物を温めてしまうのですよっ!

 しかしそれもなんかねえ・・・







 

 ちらリズムがないようで、私が温まりませんわっ!

 バキッ!!( -_-)=○☆)>_<)アウッ!

心の光(最終回)、夢へ


 母親と友人関係だった書道家の先生から、一枚の色紙が送られてきました。色紙には、「夢」と書かれています。


 


 色紙と一緒に、私宛に手紙も入っていました。







 最愛のお母さまを亡くされて、日に日に寂しさがつのって来る頃と存じます。

 「夢」、これはさんざん迷ったあげく選んだ、貴方にさしあげようと書きました字です。

 一回きりの現実の人生はまるで夢のようなもの。

 この世の中と現実の命は永遠ではないのです。

 だから眠って見るはかない「夢」は、私達に真剣に生きることを思い起こさせてくれます。

 だから思いっきり生き抜いて下さい。

                                   







 
 

心の光(五)、解放

 


 よく、『親の死に目に会えない』ことが否定的に言われたりします。でも私は、親の死に目に立ち会った人に聞いてみたいです。本当に、その場にいて良かったですか?って。
 私個人は、そこにいなかった方が良かったとも思う・・・という気持ちが、これからも絶対に消えないような気がします。
 でも、そこに絶対にいるようになってたんだと・・・しか思えないことも確かです。


 「親子でこういうことを繰り返しとるんや。な」


 こういいながら私に抱えられてポータブルトイレに座る母親は、母親(祖母)の最後の介護をしていたそうです。だからとはいいませんが、そうとしか思えないのです。





 嘘のように好転した母親の体調も、やがて悪化していきました。

 
 「やっぱり、医者の言うことは当たってるんやわ」

 
 母親は、妙に納得したように言っていました。みぞおちの痛みと激しい倦怠感で、やがて、食事も水分もとるのもままならなくなって、モルヒネと鎮静剤を皮下注射で二十四時間体内に投与し続けることになりました。
 薬で混濁しつづける母親の意識。緩和ケアとは、こういうことをいうのかと思いました。苦しみをとるのではなく、苦しみを意識ごと根こそぎとるんだ。だからこそ今考えると不思議なのです。その日、突然覚醒して、明朗に話し、お腹がすいたといって、蜂蜜と栗を食べたいといって、正月用に買っていた栗を食べさしました。
 その時分には、医者の訪問は毎日になっていました。そしてその日に限って、いつもよりもずいぶん遅い時間に、医者はやってきたのです。いつもより数時間も遅くに・・・それが不思議でしようがないのです。
 その数時間の間に、明朗だった母親も苦しくなってきたのか、横になってしまいました。でも、医者が部屋に入ってきて挨拶すると、私に体を起こせとの身振りをするので、私は母親を起こしました。ノートと書くものをというので、渡しました。母親は、力が入らない手でミミズが這っているようなものを書いたのです。文字とは思えない誰が見ても読めない代物でしたが、私にはわかりました。目の前の医者の名前だとはっきりわかりました。○○先生。


 「○○先生って書いたんか?」


 そう聞くと母親は、うんうんと頷きました。そしてひどく苦しそうなので、横になるかと聞くと、頷きました。私は母親を寝かせました。ものすごく苦しそうでした。
 医者が皮下注射の薬の入れ替えをしている時です。苦しそうに眉間にしわを寄せていた母親が、すっと目を開きました。天井をじっと見てるその顔から、今思うとはっきり分かるのですが、全く苦しさが消えていたのです。布団から手を天井に伸ばして、何かをつかもうとしているように宙をかいています。その何かがはっきり見えているように、苦しみから解放されたように目をしっかり開いていました。私はまた、薬が再び効いて意識が混濁の中に入っていくのだ・・・そう思いました。


 私が、その場にいない方が良かったとも思う、といったのは、その瞬間がその瞬間だと分かっていれば・・・という気持ちがこれからも消えないだろうと思うからです。天井に向かって伸びていた母親の手が布団の上に下ろされました。そして母親はまた目を閉じました。薬が効いてまた、眠るんだろう・・・と私は思ったのに。その間の母親の動きをじっとみていた医者は、


 「呼吸が止まっているかもしれません」


 といったのです。私は十数秒じっと座って寝ている母親を見ていました。医者の言う意味がよくわからなかったし。その医者も、いつものように、母親の血圧やら体温を計りだすだろうと思ったのです。でも医者は何も行動をとりません。異様に不安になって、私は母親の肩に手を置いて、「おい」とゆすりました。そしたら、糸の切れたとはこういうことかといった風に、母親の体がかくかくして空っぽの軽さだったのです。何か言うだろうと思って何度揺さぶっても、かくかくと空っぽの軽さだったのです。



 なんで、いつもより数時間も遅れてきた医者に合わすように・・・と今でも思います。その時でなければ、私はその場にいなかったかもしれないのに。トイレに入ってたかもしれないし、台所に立っていたかもしれないし、隣の部屋で新聞を読んでたかもしれないし・・・。
 それは、もちろん私の意志でもないし、母親の意志でもないし、何かもっと別のもののなせる意志のような気がする。母親の母親とか、その母親とか、そのまた前の・・・そんな大きな膨らみの意志のような気がする。



 
 

心の光(四)、回復

 

 服用していた薬をすべてゴミ箱に捨ててしまった母親に、私はできる限り、食事を手作りして食べさせることにしました。というのもその時の母親は、食べる時も飲む時も、「にがいにがい」と言っていたのです。おそらく薬の副作用かと思うのですが、母親にとったらその副作用が、病院が処方してきた薬による陰謀だという被害妄想に犯されていたのです。食べるものに非常に警戒心を抱いていました。それ以外にも、電話や郵便物やインターホンにも敏感になっていました。母親の顔は常に緊張を浮かべていました。

 いったいどのような世界が、母親の頭の中に渦巻いていたのか・・・ 

 しかしそんな母親も、家に帰ってきて、少しずつ少しずつ、絡まりあった糸玉がほぐれていくように、平穏な表情を取り戻してきたのです。いつの間にか、食べても飲んでも「にがい」とは言わなくなりました。実際、私が出す食事を美味しいと感じているようでした。病院のことも言わなくなりました。

 私は母親に、縁側に出て日向ぼっこをしてみないかと勧めてみました。外の世界に警戒心を抱いていた母親ですが、あっさりと承諾してくれました。それからは縁側での日向ぼっこが日課になりました。その後も私は介護用品事業所に出向き、車椅子と四点杖をレンタルしました。当時の母親は、もちろん一人で歩くこともできません。杖をついてでもです。そこで車椅子でなら一緒に外に短時間でも出ることができるし、安定感がある四点杖なら、ひょっとしたら一人で歩けるかもしれないと思ったのです。

 介護用品というのは、よく考えられたものだと感心しました。普通の杖なら歩けなかった母親が、四点杖を使ったら、よちよちですが歩くことができたのです。まるで赤ん坊が立ち上がって歩き出したようでした。私は天気のいい日に、母親を車いすに乗せて外に出ました。






 医者や医療に不信感不快感を抱いていた母親ですが、もう大丈夫かもしれないと考えた私は、訪問緩和医師を家に呼びたいと持ちかけました。やはり、医師とつながりがなく家族だけで母親を見ることは不安であったのです。そして想像以上にあっさり承諾してくれたのには驚きました。やってきた医師は母親を診察して、非常に顔色もいいし、思っていた以上に状態はいいですね・・・と言ったのです。その医師は、二週間おきに来ることになりました。
 やせ衰えていた母親の体重も、2kg増え・・・。前の担当医が宣言していた、余命が十月ごろだろうというその十月が来ても、母親の体調良好は続きました。


 本当にこのまま治ってしまうのではないか。
 またお遍路の旅でも、出られるのではないか。
 そう思いました。
 

心の光(三)、笑顔

 

 ホスピスから脱出するように退院したその日の母親の荒れ方は、たいへんなものでした。その矛先が、息子である私にも向けられたりしたのです。


 「あんたも病院とグルになってるんやろっ!」
 「正直にいうてみい、親子の縁を切るっ!」


 憎しみに満ちた目でそう言われました。そうだとしても、母親の現状は自分で歩くこともできませんから、言葉は悪いですがそれが唯一の救いでした。これで自由に歩き回ることができたらと思うと、何をしだすかわかりませんし・・・。
とにかくその日から、私は母親のベッドの横に布団を並べて寝ることにしました。
 夜、布団に横たわって、ふと、母親と、四国遍路の旅に出たことを思い出して、そのことを言ってみたんです。


 「遍路に行ってるときは、一緒にこうして民宿に泊まったなあ」


 そしたら、ずっと顔を引きつらせて天井を見つめていた母親の頬が、ふっと緩んだのです。


 「そやなあ。また行くか?」


 とまで言ったのには、驚きました。そして、その体ではもう行くことなどできない、そう思うと不憫になり、そして、旅をしていたとき先先と足早に歩いていたことを思い出して、


 「悪かったなあ」


 と詫びを言ったら、さらに驚いたのは、母親は黙ったまま笑ったのです。

 

心の光(二)、脱出

 その夜、私は母親の病室に泊まり込みました。私にベッド上の母親は、翌朝にこの病院から脱出して家に帰るという計画を話すのです。そして一方で、目に見える、または耳に聞こえる現象を語るのです。


 「あそこが青く光ってる」
 「ほら今、電車が走ってるやろ」


 深夜の病室に青く光るものはないし、電車が走る音も聞こえるわけがありません。そして母親は、のどが渇いているだろうと思って私が差し出した水道水を飲もうともしません。


 「この病院の水道水には毒が入ってる。あんたも飲みなやっ!」


 崩壊した精神は、もう元には戻らないだろう。
 一瞬、この母親をベッドに縛り付けてでも入院を続けさせるという、悪魔的な思考が浮かびました。しかし水さえも拒否するこの今の状況では、餓死してしまう。狂気の中に入ってしまった母親の目と見つめあって、私は結局、母親を家に連れ帰ることに決めました。翌朝、私たちはまるで夜逃げのように病院から出たのです。まさに脱出劇のようでした。




 久しぶりに家に帰った母親は、ほっとした様子もありませんでした。そればかりか、


 「病院からつけられてるかもしれん」


 そう言って、かかってくる電話から郵便物から、すべてに神経をとがらせる有様でした。そして、今まで服用しつづけていた約十種類の薬を、


 「もういらん」


 そう言って、ごみ箱にすべて捨ててしまったのです。

 

心の光(一)、崩壊

 前回の記事にて入院していた病院から、しばらくして、母親は緩和ケア病院に転院しました。いわゆるホスピスという施設です。
 母親も、その場所が自分自身の最終地点だと考えていたようです。我々身内もそう思っていました。ところが・・・

 入院して数週間後のある夕方、ホスピスから電話がかかってきたのです。かけてきたのは母親本人でした。どうやら病棟にある公衆電話からかけてきたようです。母親は一人では歩けませんから、横に付き添いの看護士さんがいることは容易に想像できました。母親の口調はまるで、横にいるその看護師に聞かれまいとするような・・・そんな話し方でした。そして、切羽詰っているようにも感じました。「とにかくいますぐここにきてほしい」そういうのです。



 病棟につくと、母親は(前回記事にも書いた)歩行器の中に入って廊下を歩いていました。私を確認すると周りをうかがうような形相で私に近づいてきて、小声で(母親が入室している)部屋に入れというのです。私は母親の目の色を見て、恐ろしい不安を予感しました。
 部屋に入ると母親は私をソファに座らせ自分はベッドに座りそして語り始めました。


 「この病院から早く出ないかん」
 「この病院が出す食事には、毒が入ってるんや」
 「この病院が出す薬も、毒や。毒を飲まされてるんや」
 「病室に音楽をながして(ナースコールでなる音楽のことですが)洗脳してるんや。ここにいる人みんな、それで動かれへんようにされてるんや」
 「それで金を巻き上げてる詐欺集団やねん、ここは。ホスピスという名前を借りてる詐欺集団やねん」


 取りつかれたようにしゃべる母親の目は、私ではどうしようもない暗黒に迷い込んだような目の色でした。絶望という言葉を、私は母親と見つめあいながら心でつぶやいていました。